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2012年10月21日

人付合いは150人が精一杯/「生命的な情報組織」を読み解く2

2008年3月23日(日) 03:10 ▼コメント(2)

 さて、「生命的な情報組織」を著された西垣通さまのインタビュー記事がございました。

人間のロボット化や情報洪水を防ぐには情報学的転回が重要


 この中でワタシのココロに残った部分を抜粋してみましょう。
・現代物理学は、情報が、物質、エネルギーに次ぐ第3の本質的存在であることを示しました。ただし情報は、物質やエネルギーと違って、実体がなく、生命と共に発生したものであり、生物と対象との関係性から生まれるものです。

・「記号(記号表現)」を形式的に処理できる技術であるITの発達により、情報の複製、伝達、蓄積が簡単になったことで、人間は、その「記号(記号表現)」がもともと何を意味しているかということをすっかり忘れてしまいがちです。

・ユダヤ=キリスト教では、神が全ての生物を「作った」ということになっていますが、一方、仏教では、生物は、汎宇宙的な原理の下で「生まれた」と考えられているようです。私は、こういう東洋思想の中に、人間をロボット化しないようにするための思想的な””が潜んでいるような気がしています。

・ユダヤ=キリスト教的な世界観が近代を作っていることは確かです。むろんそれは良い面も多いのですが、一方で、近代化の行き詰まり、地球環境汚染やテロをはじめとする様々なひずみももたらしており、皆がそのことに気づき始めているのです。

・実際、欧米の人たちは、現在、その点に関して非常に悩んでいます。私が欧米の人たちにそういったテーマを投げかけると、彼らはとても深いレスポンスを返してきます。ところが、日本人は、そういった本質論に関しては、興味をもつ人があまり多くありません。

 携帯用前記事


 では、前記事からの続きでございます。

生命的な情報組織」[4] 思考機械めざして
【「やさしい経済学」08.03.07日経新聞(朝刊)】

 情報とはまず何より、生命的なものである――。こう言うと、首を傾(かし)げる人も多いだろう。情報とはコンピューターで処理されるような機械的なものだというのが、社会的通念になっているからだ。だが、情報学の歴史をたどると、実は順序が逆であることがわかる。

 情報学が成立したのは20世紀の半ば、1940-50年にかけてである。このころ、現行のフォン・ノイマン型コンピューターが実用化され、サイバネティックスが数学者ノーバート・ウィーナーによって提唱された。1948年に書かれた名著『サイバネティクス』には「動物と機械における制御と通信」というサブタイトルがついている。ごく平たく言えば、動物の脳神経システムと電子機械的なシステムとにまたがる統一的な考え方をかかげたのがサイバネティクスだった。

 フォン・ノイマンやウィーナーをはじめ、当時のすぐれた情報学研究者たちの最大の関心事は、「人間が思考するとはいったいどういうことか、それは機械的に実現できるのか」という問題である。つまりコンピューターというのは、単なる高速計算機械というより、むしろ学問的には「思考機械」をめざして開発されたのだ。だから生物の脳神経のモデルがさかんに研究されたのである。

 さらにまた、1953年にはジェームス・ワトソンとフランシス・クリックによるDNA二重らせんモデルが提唱され、生物の遺伝や進化を情報的観点から研究する分子生物学が誕生した。ここで情報と生命との結びつきは明確なものとなったのである。

 にもかかわらず、情報が専ら機械的なものと見なされるに至ったのはなぜだろうか。一因として、1948年に発表された通信工学者クロード・シャノンのコミュニケーション論が、情報についての基礎的な理論として広まったことがあげられる。これは通信工学理論としては画期的なものだったが、内容自体は機械的な通信の域を一歩もこえるものではない。ところが一般的な情報理論という体裁で書かれていたため、あたかも情報現象が生命活動と無関係だという誤解を招いてしまったのだ。

 この結果、人間同士のコミュニケーションを機械的な交信とみなし、さらには、人間そのものをサイボーグのような機械的存在とみなす通念がうまれたのである。今や、その半世紀にわたる呪縛(じゅばく)から逃れる手だてを考えなくてはいけない。

 ここで読みまつがいしていけないのは、「思考機械」を目指すのはあくまでコンピュータであって、人間ではないということ。ま、ちゃんと読めばそんなことにはなりませんけれど。

 小見出し「思考機械めざして」だけ読んじゃうと、あたかも人間自体がそこに向かっているような気になりません?ワタシだけかしら。と思ったりするのはゆえないことではない、というのが「人間そのものをサイボーグのような機械的存在とみなす通念がうまれたのである」の一文なでしょうね。

 東大の先生はこんなこと考えてるんですねぇ。


「生命的な情報組織」[5] 個体とは何か
【「やさしい経済学」08.03.10日経新聞(朝刊)】

 情報とは端的には、生物が生きるための「意味作用」をもたらすものである。たとえばウェブから何かのデータを入手したとき、それがわれわれにとって意味があるからこそ、はじめて「情報」と言える。無意味なデータなどクズにすぎない。だから機械的なデータ検索能力があがっても、かえってデータの洪水のなかで思考能力がおとろえ、溺死(できし)してしまう恐れもある。自己責任で「石」のなかから「玉」だけをやすやすと選びだせるほど、個人という存在は強いものでも賢いものでもない

 生命的な情報という観点から眺めたとき、個人とはいったい何だろうか。結論から言えば、いわゆる生物個体とは、DNA(遺伝情報)を混合して環境に適応していくための手段にすぎないのである。約40億年前、地上に誕生した細菌は、単に自分のDNAをコピーして殖えていくだけの単細胞生物だった。これは今でもたくさん生きているが、し合うわけでもなく、個体とはいえないしろものである。環境が悪くなれば大半が死滅してしまうので、ともかく凄(すご)いスピードで殖えるのが生存戦略なのだ。

 これにたいして、オスとメスに分かれ、DNAを混合していくという生存戦略がある。そうすると多様性が増すので、環境が変わっても適応しやすくなる。さらに、細胞は個々バラバラで生きていくより、それぞれが専門的役割をもち、まとまって生きるほうが生存上有利だろう。こうして有性生殖をする多細胞生物がうまれたわけだ。

 つまり個体とは、DNAのそういう生存戦略からうまれた相対的単位にすぎないのである。われわれの意識や思考も、個体という単位をまとめる脳神経系が生きるためのにうみだす一種のプロセス以上のものではない。

 では社会とは何だろうか。いわゆる社会的生物とは、個体があつまって群れをつくることで、DNAの生存能力をあげるという戦略をとる生物である。ハチやアリのように、女王という生殖専門の個体が出現する生物もいる。霊長類に女王はいないが、協力して生き抜くという戦略をとっていることに変わりはない。

 とすれば、経済主体としての個人を絶対視するわれわれの価値観は、どこか不自然ではないだろうか。むろん共生や協働などのテーマは、以前から直感的に唱えられてはきた。だが生命や情報についての最近の研究成果は、それらがいかに人間にとって本質的かを教えてくれる。

 もおう、ここらへんにまいりますと「ほうほうほほう」と納得してしまう他ございませんね、ワタシ。なんていうんですかね、エヴァンゲリオンの人類補完計画なんてフレーズが頭に浮かんだりして。「えっ!? 全然関係ない?」


「生命的な情報組織」[6] ヒトの共同体
【「やさしい経済学」08.03.11日経新聞(朝刊)】

 進化史をふりかえると、ヒト(ホモサピエンス)という生物種が地上に出現したのは十数万年前のことだった。あらゆる生物はもとをたどれば親類同士であり、チンパンジーの先祖と枝分かれしたのは5百万年ほど前だったようだが、それから進化を重ねてヒトが誕生したわけだ。言いかえれば、大脳の容量や身体機能などは十数万年前から基本的に変わっていないことになる。

 文字ができたのは約5千年前で、それ以前の様子は考古学的に推測するほかはない。さらに、くわしい記録が残っているのは、印刷技術が広まったせいぜいここ数百年くらいのことである。われわれは近代以降の出来事ばかりについて目を奪われがちだが、自分たちがいったい何ものなのかを見抜くには、まず想像力をはたらかせ、太古の暮らしを思い描いてみたほうがいいだろう。

 今でも狩猟採集民はいるが、農耕牧畜がはじまるまでのヒトは、数十人から百人程度の群れをつくり、移動しながら生活していたのではないかと考えられている。この人口規模は割合に大切だ。よく知られているのは、人類学者ロビン・ダンバーの「150名が群れの上限値」という仮説がある。

 霊長類は哺乳(ほにゅう)類のなかでも大脳新皮質がよく発達した動物だが、ダンバーはさまざまな霊長類について調査し、大脳新皮質のサイズと群れのサイズとのあいだに明確な相関関係があることをつきとめた。群れが大きくなると、個体どうしの相互コミュニケーションが複雑化し、その処理の負荷が一挙に増大するので、大脳も大きくならざるをえない。ヒトの場合、大脳新皮質のサイズから計算すると、群れのサイズは150になるというのだ。

 言いかえると、われわれヒトとは、せいぜい百名程度の共同体をつくり、そのなかでコミュニケートしあいながら生きる生物なのである。何千万、何億の人々と一緒に共同体をつくるほどの脳は、残念ながら遺伝的に持っていないのである。

 ではいったい、人口1億人以上の近代国家共同体というのは何ものなのだろうか。いや、そればかりではない。21世紀には、インターネットをベースにして地球村ができ、そこでは60数億の全人類が互いに情報を共有し、コミュニケートしあえるというがよく語られる。だがヒト本来の脳の容量からすれば、そんな考えは幻想のような気もしてくる。

 さて、ポイントになる数値が出てまいりました。脳味噌(大脳新皮質)の大きさって、群れのサイズで決まるんですねぇ。やっぱり、人付き合いって疲れる(脳味噌遣う)ものなんでしょうか。結局、個体として生き延びる戦略として集団になり、その集団を維持(お付き合い)するために脳味噌の大きさが決まっている、という解釈でよろしいんでしょうかね。

 人は脳味噌が大きかったおかげで生存繁栄している、のではなくて、大枠としては生存のために脳味噌が大きくなるしかなかった、ということなのかしらん。でも、150っていう数字はなんだかしっくりくるような気がしません? 年賀状なんかでも気持ち込めて書けるのって、それくらいが限度っぽいですもの、ワタシ。


「生命的な情報組織」[7] 機械化されるヒト
【「やさしい経済学」08.03.12日経新聞(朝刊)】

 本来はせいぜい百人程度の群れで生きていたヒトという生物を、何千万人、何億人という単位の共同体にまとめあげたのは、言うまでもなくメディアの威力である。

 ヒトの言語は約5万年前に現れたという。文字が約5千年前、活版印刷技術が約5百年前、そしてコンピューターが約50年前に出現した。やや強引だが、インターネットの本格的普及をおよそ5年前とみなして対数をとり、共同体規模との関係を表わすと、面白いグラフが描けそうな気がしてくる。

 インターネットやウェブという発明は、たしかに近未来に途方もない飛躍をもたらす可能性が高い。私がコンピューターを学び始めた40年ほど前、まさか地球上の個人同士が互いにパソコンやケータイで交信できる日が来るなどと予想していた専門家は誰もいなかった。コンピューターはあまりに高価で、しかもメーカーの異なる二つのコンピューターを結ぶことさえ難事だったのである。

 しかし、驚異的なIT(情報技術)の進歩発達にくらべて、それを真に使いこなすための原理的な研究はむしろ低迷しているのではないだろうか。人間とITとの関係がうまくとらえられていないのである。平たく言えば、我々人間をまるで情報処理機械のようにあつかう風潮が最近ますます強くなりつつある。毎年のように新たなハードやソフトが売り出されるが、ようやく操作を覚えた頃(ころ)にはすぐに消えていく。機能は満載だが、頻繁に不具合がおきる。昔は簡単にフリーズするコンピューターなど存在しなかった。いまは自己責任で修理しなくてはならない。情報とはわれわれに「意味のある内容」をもたらしてくれるもののはずなのに、それ以前の形式的な処理ばかりに振り回されているのだ。

 われわれが生きる上でもっとも大切なのは、心の通じ合う少数の仲間との、暗黙のうちにおこなわれる濃密なコミュニケーションである。それが知恵をはぐくみ、生きる勇気を与え、創造活動の源泉となる。ヒトとはそもそもそういう生物なのである。

 何も「昔の共同体に戻れ」などと世まい言をいうつもりはない。ウェブで見知らぬ多くの人々と会話し、さまざまな知識をえるのは楽しいことだ。だが、ITを本当に活用する道は、人間や動物を機械と同一視するのではなく、生態環境を形成している生命的なネットワーク上のコミュニケーションをもっと尊重することだろう。

 社会主義とか共産主義体制って崩壊したっていわれてますよね。確かにヨーロッパのいくつかの国々やロシアは転向してしまいました。現在でも中華人民共和国をはじめとした何カ国は体制維持してますけど、権力者の都合のため、という側面が強く見受けられてしまいます。そんな事実を見ますとね、社会主義ですとか共産主義って間違った考え方よね、って気がしますわね。無理のないことです。

 突き詰めて考えたことございませんのでね、あくまで印象レベルなんですけども。社会共産主義思想って、考え方とか方向性はいいのだけれど、運用する人がそのレベルに追いついていないがゆえに現代社会においての実現は無理なんじゃないかな、と。人が全てエスパーみたいな能力を持ちえてですね、お互いになに考えているとか、個々人の状況ですとか全部ワカって、相互理解しあえる状況下であれば上手くいく制度なのかな、と。で、ITというのはその相互理解を深めていくツールとしての発展が見込めるものじゃないかな、と。まー遣い方なんですけれどもね。



「生命的な情報組織」[8] ITは知恵の手だて
【「やさしい経済学」08.03.13日経新聞(朝刊)】

 情報爆発しつつあるインターネット文明に、最も求められていることは何だろうか。それは、機械的データの大洪水から我々を救いだし、ヒトという生物の生存能力を高めるための「知恵の手だて」としてIT(情報技術)を位置づけ直すことである。

 近代社会における主体的な個人とは、理念としては美しいが、どこかむなしいものだ。人口1億以上の国家ともなれば、いかにデモクラシーをうたおうと、個人の意見はほとんど社会の仕組みに反映されない。大量生産・大量消費の経済メカニズムのもとで、個人はぎりぎりまで生産効率向上を求められる。消費者は自由意思で商品を選んでいるようだが、実は購買意欲をたくみに誘導操作されているにすぎない。そういうなかでストレスのあまりつぶれる人間もでてくる。これまで国家規模だったが、グローバル経済の到来とともに、抑圧は加速度的に激化していくのだ。

 この抑圧は、もともと百人程度の群れで暮らす脳しか持たないヒトという生物が、偶然を重ねて途方もない物質的繁栄をわがものとしてしまった代償とも言える。ウェブのなかでもいつもの自分とは違う人格を演じてみるというのは、一時的にせよ、そういう抑圧から逃れるための方便なのだろう。

 となると、無理に人格の分裂融合を禁止し、従来のいわゆる近代的な個人の殻のなかに押し戻そうとするのは賢明な策とは言えない。むしろ、ウェブのなかの人格をあえてエージェントとして認め、そのかわり発言責任や取引責任をエージェントに負わせていくといった、新たなタイプの行動主体のありかたを模索していくのが早道のような気もしてくる。

 やがて従来の均質なマス社会にかわり、インターネットをベースに、小規模な共同体の連帯社会が主流になるかもしれない。そこでは、生命的で親密なコミュニケーションが復活する可能性もある。

 肝心なのは、経済主体としての競争的な個人を絶対化する発想だけでは視野が狭すぎる、と気づくことだ。

 むろん、個人が分裂融合するならば、法制度も経済制度も根本から再検討が必要となるだろう。

 道のりは長い。だが、まず我々一人ひとりが、ヒトのヒトたるゆえんをいま一度自問してみることから、始めてみてはどうだろうか。

=おわり

03-23 03:33
端野 萬造
 で、例の如く本文が限度までいってしまわれました。で、残りをコメント欄で。

 某ブログで「理想とするマイとかちの未来像を具体的に」と尋ねられたのでお答えしたのを引用して、本論を終了します。

 ブログサイトの興隆というのは、書き手であるユーザーがどれだけ盛り上がれるか、にかかっています。ですからユーザーの意向にある程度沿ったカタチをとらざるを得ない。

 で未来像。といって、ソンナしっかり考えたワケではなくて、可能性があるんじゃないか、といった程度。

 地域のインフラに十分なりえると思うのですよ。どこでなにが起こっている、それについてドウ考えている、コウいった意見がある、それに反論する。この展開が極めて容易なのが、マイとかち。

 それで住民自身が地域に対する理解を深めて関心を持つようになれば、愛着は湧くでしょうし、何かしたいって思えるのではないかと。市役所なんかに頼らずともですね。




03-23 09:21
端野 萬造
 蛇足でございますけれど、西垣先生がお遣いになられているエージェントとワタシが頼りにさせていただいているエージェントさまは言葉同じですけど、意味は違います。

 西垣エージェントは「代理人」を意図し、萬造エージェントは「諜報員(スパイ)」をイメージしております。つまり、西垣エージェントでは「端野萬造は『実存端野萬造』のエージェント」であり、萬造エージェントは「エージェントさまはいわゆる『ボンド・ガール』と同義」ということですね。あはは。

 で、昨日もエージェントさまから厳しいご指摘がございました。「萬造さん。引用のココとココ、意味通りません。引用違いじゃございません?」

 「あら、本当だわ。違ってる」と眠い眼をこすりながら、本日未明訂正させていただいております。今後も「端萬記」は読者の皆さまとエージェントを含めたコメンターさまとワタシと三位一体でいいもの創っていければな、と。

  


Posted by きむらまどか at 16:20Comments(3)IT/マイとかちのこと

2012年10月21日

ネカマのはじまりは土佐日記/「生命的な情報組織」を読み解く

2008年3月21日(金) 06:30 ▼コメント(0)

 日本経済新聞には「経済教室」と銘打ったページがございましてね。なかなか興味深い内容が掲載されているのですが、そのなかでも一番短くて親しみやすい企画が「やさしい経済学-21世紀と文明」でございます。

 大学教授を始めとする専門家の皆さまがですね、平易な文章で専門分野のエッセンスとでもいうべきもの短期集中連載で伝えてくれます。ワカリやすいとはいうものの、ワタシも毎回読むわけではございません。興味がソソられた時のみ、ですし、連載を読みきるというのは極めてマレ。

 で、平成20年3月4日から13日までの8日間に渡って連載されました東京大学教授西垣通さまの「生命的な情報組織」は切抜きまでしちゃいました、ワタシ。

 「生命的な情報組織」という言葉には正直魅かれるものはございませんでした。第1回目の小見出しが「ウェブ上の人格」でございまして、これがワタシのハートに火をつけたわけですね。

http://www.youtube.com/watch?v=M_yWyBjDEaU
 ドアーズ「ハートにをつけて」36秒後に馴染みのフレーズが。

 結局連載最後までお付き合いしてしまいました。非常に深い考察に包まれることができた、ということで「端萬記」読者の皆さまにご紹介したいな、ということです。
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「生命的な情報組織」[1] ウェブ上の人格
【「やさしい経済学」08.03.04日経新聞(朝刊)】

 ブログ人口の伸びはすさまじい。総務省の発表では、2006年3月時点ですでに868万人だった。その半年前、05年9月には473万人だったというから、大変な勢いで増加し続けていることになる。

 おそらく現時点で、ブロガーの数は少なくても1千万人を軽くこしているはずだ。さらに、書かないまでもブログを読んでいる人になると、3千万人以上にのぼるという噂(うわさ)もある。つまり、高齢者や子供をのぞくと、日本人十人のうち、一人か二人はブログを書き、三人以上がブログを読んでいるということになる。こうなれば今や、国民的なメディアになったと言ってもよいだろう。

 だが正確にいうと、この数字は少し怪しいかもしれない。というのは、一人が数人のふりをして幾つかのブログを同時並行的に書いたり、逆に仲のよい数人が一人のふりをして順番に一つのブログを書いたりすることもありうるからだ。書き手はふつう実名でなくハンドルネームを使うし、プロフィルもフィクションの可能性がある。

 言うまでもなく、ブログというのは、インターネットのウェブ上でつける個人的な日記である。昔から日記をつづる人は、それが他人に読まれることを考えて、ちょっとベールをかぶりたくなるようだ。「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり」と、のふりをして仮名で土佐日記をつづったのは紀貫之だった。女性のふりをしてネットで発言する男性をネカマ(ネットオカマ)と呼ぶらしいが、ネカマ・ブロガーの心理の系譜は紀貫之までさかのぼる。逆に男性のふりをしてブログをつけている女性も少なくないだろう。いつもと違う自分になるからこそ、かえって本心を書けるのかもしれない。

 誰しも自分のなかに複数の人格をもっている。近年の認知科学や脳化学の研究によると、人間の脳は幾つかのブロックに分かれており、思考自体もとかく矛盾しがちで、首尾一貫した「自己」を見いだすことはむしろ難しいという。だが社会生活においてはそうもいかず、常に一貫した自己を演じ続けなくてはいけない。そこでせめてブログでは、別人格で発言したくなるのではないだろうか

 ネカマの起源が土佐日記の紀貫之まで遡ってしまふ、というのはなかなか興味深い解釈でございますよね。ひらがな、というのは女性の専用文字であって、男性が遣うものではなかった、ということは存じておりましたけれど。ただ、どの時代も新しいものがあれば試してみたい、という欲望は変わらなかったとみえますね。「ぼくだって、遣ってみたかったんだもん!」

 ワタシ某ブログで「ぁぃぅぇぉ多用はやめとけ。中年が使って許される表現方法ではないし、今時ネカマも使わんぞ」とご注意を受けたことがございました。そのときは畏まって拝聴したのですが、なるほど、ワタシも紀貫之さまの系譜に属すると考えれば、自然な行動だったのではないかと。・・・んなわけないか。

 で、「別人格で発言」なんですけどね。「まんへり」において、このような発言をしたことございました。「虚像とは真剣に話してもむなしい」とのカキコを受けてです。

 この場(マイとかち)がワタシにとって一番の自己実現の場だとしたら、それも結構情けないものがあるんじゃないでしょうか。結局はヴァーチャルな実態のない世界ですから。

 ここでのワタシは結局虚像に過ぎません。端野萬造というキャラクターをウゴかしているだけですから。虚像と実情のギャップはものすごいことになっているかも、です。

 「虚像」ということを問題にされているようですが、実像でなければ存在に意義はないのでしょうか。実像は実像というだけで、価値あることなのでしょうか。それをお伺いしたいですね。

 ワタシは「虚像」を真剣に演じております。そのことに嘘はない。身を削って、吐きそうになりながらやっている。

 そのことを読者の皆さまにご理解いただいているかどうかは別の問題。それはワタシにとってどうでもいいのです。楽しんでいただいて、「次も萬造のカキコを読みたい」だけで結構なんですから。

 大体において、このマイとかちにおいて「実像」で活動されている方がどれくらいいるとお考えなのでしょう。ワタシ以外の方、貴殿も含めて全てなのでしょうか。その根拠はどこにあるのでしょう。

 たとえ、実名をさらして活動されている方でも、マイとかちで表現されている姿が「実像」なのかどうかは、ワタシには判断つきません。

 あくまでWEB上でのことなのですから。ですから、ここで「実像」がエライだの「虚像」はクダラナイなどの議論は全く意味がないということです。

 ワタシは貴殿が実像なのか虚像なのか、全く興味はないですね。ドチラであろうとかまわない。マイとかちで何をやっているか、だけが判断の基準。

 現実世界でどれだけご立派な仕事や行為をなされていても、ここでは無関係ですね。だって、ワタシはその事実を知りませんもの。知る必要もないですもの。

 ネット上での人格というのは非常にフレキシブルで変幻自在。都合のいいように変えられますし、自覚していないことも多い。そういう方は何かコトが起こるとスグ気分を害されたり、オチこんだりという。ワタシ自身にもそういった傾向は否めません。

 でも、別人格でいいんですよぉ。そう考えれば、色々気楽になりませんか。

 さて、次のにまいりましょう。


「生命的な情報組織」[2] 分散人格と複合人格
【「やさしい経済学」08.03.05日経新聞(朝刊)】

 ウェブはいま、新たな人間観をつくりだしつつある。ブロガーは、性別や年齢など、いつもとは違う自分になって解放され、匿名で自由に発言したくなる。さらには、ウェブのなかで一人が複数の分散人格と化したり、何人かが集まって一つの複合人格を創(つく)りあげたりすることさえある。

 このこと自体は心情的に理解できる点もあるし、とりたてて責めるべきではないだろう。過度に自己責任が求められる現代において、昼も夜も首尾一貫した自己を維持していくストレスは大変なものだからだ。

 とはいえ、インターネットを21世紀の政治・経済・社会をになう新たなメディアだと考える人々にとって、こういう風潮は困ったものに違いない。近代社会は、主体的に行動し、その責任を負う個人から成り立っている。一般の人々がウェブで自由に意見を発表できるようになったことは進歩だが、当然それには発言責任がともなう。仮に個人が空中分解してしまえば、デモクラシーも崩壊してしまうだろう。皆が匿名の仮面をかぶってウェブで勝手な放言をしたり、他者攻撃を始めたりすれば、もはやインターネット文明の未来はない。そこでは、人間が内に秘めているドロドロした悪意が噴出してしまうのである。

 もともとインターネット文明は楽観的な性善説にもとづいて発達してきた。逆にいえば、犯罪や悪意にたいする防御は弱いのである。たとえば、ネットオークションから詐欺師を排除することが難しいのは、いくらでもハンドルネームを変えて再参入できるためだ。だからネットオークションで大切なのは、信頼できる取引相手を見つけることである。つまり、悪の追放より善の連帯を重んじるのが、インターネット文明の特徴と言える。こうしたオプティミズムに立脚すれば、自由の代償として、責任ある個人という近代的理念がある程度ゆらいでいくのもやむを得ないという、諦(あきら)めの声があがるかもしれない。

 とはいえ、ここでまったく別の考え方もできる。ウェブを通じて近代の個人主義を乗りこえることができるのではないか、という積極的な主張である。たしかに独立した個人は近代社会のベースだが、人間のアトム化が経済的・社会的な格差をはじめ、さまざまな問題を起こしていることも事実である。ウェブにおける分散人格や複合人格という実験を通じて、そこに風穴をあけることができるかもしれないのだ。

 ここで思い出されるのは、やはりマイとかちにおけるアカウント強制停止に関わる一連の騒動でしてね。運営上に問題あり、という部分でワタシは議論を展開していたわけなんですが、それよりもむしろ「アカウント停止自体が無意味」という根本的部分が必要であったのだな、と。「無益な行動はいたずらに不安感や不信感を増幅するだけですよ」

 マイとかち初心者のための歴史講座

 「代理戦争」'07.09~10のほぼ1ヶ月間。マイとかち史上初めてのアカウント強制停止事件を受けて管理人さま(検事兼裁判官)と萬造(弁護人)との間で繰り広げられた論争。もともとは他人同士のブログコメント上でのいざこざが発端。

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 で、結局アカウントは回復されることなく、caskさまは退場されましたけれど、それは別に反省したり畏まったりしているわけではない。大体において、そのような理由は存在しないのですから。単にメンドくさくなったからですね。その点ワタシはしつこい。絶対に忘れるコトはありません。

 でも「ドロドロした悪意」ってなんか怖い。

 では、次に参りましょ。ここらあたりから、「生命的な」という部分が登場してまいります。なかなかオモシロいんですよ。


「生命的な情報組織」[3] 自律的システム
【「やさしい経済学」08.03.06日経新聞(朝刊)】

 ウェブのなかでは人格をつくりあげることができる。ハンドルネームを使い分け、一人で多様な人格としてブログを書くことができるし、また一方、何人かが集まっていわば複合人格を創(つく)りあげることもできる。さらに、そういうフィクショナルな人格が、ネットオークションで独立した取引主体としてビジネスをすることもできるのだ。

 こうして、インターネット社会では、分別できない絶対的単位としての「個人(インディビジュアル)」という近代社会の大前提がゆらいでいく可能性がある。この問題を、いったいどう考えればよいのだろうか。

 ここでいったん立ち止まり、「情報」や「コミュニケーション」についてよく考え直してみる必要がある。情報というと、誰でもすぐにコンピューターのことを思い浮かべる。もちろんデジタルなIT(情報技術)の重要性は言うまでもないのだが、実はパソコンやケータイなど身近な機器の利用テクニックは、情報にまつわる人間のさまざまな知的分野のほんの一部にすぎない。本当にITを使いこなして文明的飛躍をとげるためには、もっと視野を広げ、生命体や社会とのかかわりにおいてウェブやコンピューターの可能性と限界とをとらえなくてはいけない。

 情報は物質やエネルギーとならんで、宇宙のもっとも根源的な存在だといわれている。そして、面白いことに、情報やコミュニケーションという観点から眺めると、われわれ一人ひとりの人間だけでなく、細胞も、スポーツチームも、企業も、一種の自律的な情報コミュニケーションシステムと見なすことができるのである。言いかえると、個人とは決して絶対的な基本単位ではない。階層的システムのなかの、いわば「中間的な単位」とも考えられるのだ。

 人間の体は60兆個の細胞からできている。生物学的に細胞が生命の基本単位である。それぞれの細胞は独自に生きようとしているわけで、多細胞生物は一種の共生体である。また一方、近代以前、とりわけ太古の時代には、人間は緊密な共同体のなかで集まって生きていた。そこでは個人の自由は厳しく制限されたはずだが、その半面、現代ほどの激しい個人間の競争はなかっただろう。財産もほとんどは共有財で、仮に共同体を束ねる長の所有となっていても、長は単なる管理責任者であり、自分の個人的快楽のために共有財を勝手に消費することなど許されなかったのである。

 さて、マイとかちは私有財であるか公共財であるか、について。ここらへんの議論は「代理戦争」においてワタシは管理人さまではなく、コメンターの方々と遣り取りをさせていただきました。

 ワタシとすれば、マイとかちは公共財に成長した、との立場を未だ崩しておりません。管理人さまの設立者としての歴史は尊重されなければなりませんし、事業受託管理責任者としての収益はしっかり確保すべきである、との認識はあります。一方よりよいマイとかちにするためには、ユーザー自身に責任がある、ということも。

 ですから唯々諾々となにもかも受け入れるしかない、ということではないのです。コミュニケーションというものは一方的な関係ではなりたたない。そもそも、マイとかちとはなにものであるか、について自覚的になれば立場や反応や行動は自ずと決まってくるのかなぁ、とも思いますです。

 さて、本論「生命的な情報組織」は次記事に続きます。


  


Posted by きむらまどか at 08:52Comments(0)IT/マイとかちのこと